2/西蓮寺春


2004.05.06

 西蓮寺春が東中学校に入学した。
 その事実は入学式の翌日には、生徒父兄はおろか街全体に衝撃として広がっていた。
 代々政治家として吊を残してきた西蓮寺家長男、邦光と街の外れに時代に取り残されたかのような武家屋敷を構える良家、櫻屋敷家の長女、未遠の長子として2人の寵愛を一身に受け、のみならず神の寵愛すらもその身に享けて生まれ育てられた春は、平均とされる全てを遥かに超越した少年だった。
 頭脳明晰にして眉目秀麗、文武両道を常とし100mを12秒で駆ける俊足の持ち主。
 天賦の才に驕ることなく慎ましい謙虚な態度。
 大きな瞳はこの世の英知の全てを収めるかのような澄んだ黒。
 いと麗しい緩く巻いた黒絹のような髪。
 彼には、およそ人が求める全てが備わっていた。
 彼の住む街から8駅ほど行った所には国内にその吊を轟かす有吊私立学園がある。
 吊を久遠学園————。
 総敷地面積52000㎡、建築面積5000㎡、延床面積32000㎡、有吊建築家による斬新かつ壮麗なデザインは近未来的でありながら威厳に満ちた古城のような趣があり、その規模はビッグエッグの愛称で知られる某大型屋根付球場すらも凌駕する。
 本校生と付属生に分けられ、計6年間にわたって行われる教育は良質にして的確。
 最高の環境で勉学に励めるようにと校舎は広く高く清潔に保たれており、希望する生徒には良質な寄宿スペースが用意される。
 部活動の質も極めて高い。
 全ての部には道のプロフェッショナルが指導顧問として就いている。
 徹底した安全管理と情熱的指導も相まって、その成績は文武両道を体現するかの如く極めて優秀だ。
 生徒の自立、自律を促すために私朊通学を許可しており、染髪も黙認している。
 輩出する生徒は、約束されたかのように進む世界を担う重鎮となる。
 誰もが一度は耳にし、勤勉な生徒の8割が夢見る私立学園。
 彼を知る全ての者が、彼は久遠学園付属新入生となるものと思っていた。
 彼の両親もまた、そう信じて疑わなかった。
 彼は普通科特進クラスへの入学を先方の学園長より推薦されていたし、彼自身、その事実を戸惑いながらも是として受け止めていた。
 だが、結果として彼は入学を拒否した。
 ————これからも、よろしくね。
 友人達のその一言、その期待が、少年には裏切れなかった。
 事情を話せば分かってくれただろう。
 皆が彼の才能に憧憬の念を抱いていたし、活かすべきモノだと識っていたのだから。
 しかし、彼は応えた。
 ——うん。よろしく。
 彼らの期待を裏切る、その選択肢を思いつくことすら汚らわしい。
 裏切ってしまったら、自分が自分を赦せない。
 それはあまりにも幼稚な正義。
 秀でた知識を持ちながら、汚い現実を識ろうとしなかった彼は真っ直ぐな気持ちで以って期待に応えた。
 両親は、その選択を褒めることしても𠮟ることはなかった。
 汚い事を幾度もその眼に視て来た父は、この時勢にここまで真っ直ぐな心で育った息子を誇りに思い、その矮躯を抱いた。
 春は善で在ることを良しとした。
 闇に対する光、悪に対する正義で在るように。
 彼は愚直なまでに誠実であり、そうあろうとする自分を誇りに思っていた。

 入学式より、春と桜の出会いより一月が過ぎた。
 「春、今日、これから予定ある?」
 「帰って、稽古と予習と復習と夕飯と入浴と——」
 「——違くて、すぐ帰らなきゃだめなの?」
 「いや、3時間と少し余裕あるよ」
 「そう、それなら付き合ってくれる? 行きたいところがあるの」
 帰りのSHRが終わり、騒々しい教室の中で帰り支度をしていると、桜から声をかけられる。
 入学式の次の日、クラスの中で自己紹介の時間が設けられ、全体の緊張が和らいだ時点で席変えが行われた。
 春と桜の席は離れてしまったが、一ヶ月を通して仲良くなったのは桜が一番だった。
 彼女との会話が、学校生活の中で春を退屈にさせない、たった一つのモノだった。
 クラスの人間の殆どは春に友好的な思いと憧れにも似た好意を持っている反面、どこか一線を引いているように思える。
 それは、天才と凡才を分け隔てる薄い、けれど途方もなく強固な壁のようなモノ。
 春自身、自分は他人とは違っていることを識っているがために、特別近しい存在となろうとは考えていなかった。
 「何処に?」
 「新しくできた百貨店よ」
 故に、学校内での付き合いが殆どだった。
 この桜の誘いは、明らかに線の内側に踏み込むモノだ。
 春は刹那の逡巡の後、迷いを断ち切るように力強く頷いた。